「帝京国文学」第9号 平成14年9月 387㌻~413㌻
「鏡餅はオムスビだった?」について
中村道広
正月も半ばになると、雑煮にも飽きて、食べたくなるのが「幕の内弁当」である。その幕 の内弁当に、何といっても必要不可欠なのが「オムスビ」だと思われる。オムスビは日本人に馴染みがあり、出かけるときや出先などでも、よく食されているか らである。オムスビの説明に入る前に、この「幕の内」と言う言葉は、いつ頃から使われだしたのであるか、私見を挟みながら、考察していきたいと思う。
調査してみると、『話の大辞典』(日置昌一氏)では、「芝居の幕間に食べたところか ら」名づけられたとして、解説が施されている。また、『すらんぐ』(楳垣実氏)によれば、「相撲の小結は幕の内であるところから、小さいお結びの意に懸け たもの」としての説明がなされている。このことからもわかるように、「幕の内弁当」の語源のルーツは、諸説紛々の形で言われており、ハッキリしていないと いうのが現状のようである。しかしながら、未解決なままではいけないので、私見を述べていきたい。
まず最初に、幕の内という言葉が文献上において使用されるのは、酒落本『太平楽記文』 (1784年)という書物に置いて表現されていることが判った。その内容としては「おいらもちつともむと、ずいぶんまくの内ぐらいにはなられると」といっ た具合に、用例を取り出すことは出来たが、現在でいうような「お弁当」の意ではない。次は、黄表紙『怪談筆始』(1796年)という典籍の中をじっくり見 てみると、現在使用している「幕の内弁当」に相当する言葉が見つかった。その用例としては「幕の内でも取りにつかはしませうか」という、会話における、文 章中において使用されている。その次は、江戸時代の辞書『守貞漫稿』〔後集・食類〕の本文に「江戸吉町万久ト云店ニテ製之賣ル、名附テ幕ノ内ト云、芝居小 茶屋ニハ自家二不製之、万久ヨリ取テ觀者ニ賣ルモアリ、今ハ芝居淺草ニ遷ルトイヘドモ、尚、吉町万久ノ幕ノ内店存セリ、芝居堺町ニ在リシ此ヨリモ、芝居用 ノミニ非ズ、病氣見舞ニ贈リ物トシ、或ハは儉ノ他行二辨當ニ用之、其折入一人分百文也。」としてあることから、幕の内弁当が一般に広まり、定着しているこ とが読み取れる。さらに、『東京風俗誌』(1899年~1902年)では、「第一段を幕の内と称し」として書かれていることから、歌舞伎の「幕間」を「幕 の内」と呼称していることが容易に理解できる。ではいったい、どのようにして、相撲用語から歌舞伎用語として取り入れられていったのであろうか。
歌舞伎(16C年代)と相撲(13C)で比較してみると、相撲の方が一段と古く、農耕 の神事の行事として開催されてきた。つまり、この「幕の内」の語源は、相撲用語としての例が一番古い用例なのである。その用例の意味を紐解くと、「幕の 内」とは、「すぐれた力士」のことを指して言っていた。それにも拘らず、なぜそのよな言葉が、お弁当に取り入れられるようになったのであろうか。そういっ たことを含み、考え合わせ考えてみると、大結(おむすび)という用語は、優れた力士のことである。それに比べると、小結(こむすび)は、少々力強さが足り ない。つまり、小さな力から、大きな力へと発展が遂げられるようにという、切なる希望がこの「幕の内弁当」にはあったのではなかろうか。なぜ、そのような 突拍子もないことを言うのかというと、『守貞漫稿』〔後集食類〕(1837年~1867年)の本文にもあるように、「病氣見舞ニ贈リ物」として、江戸時代 に珍重されるようになるからである。つまりそこには、優れているといった意味合いが「課大評値」され、体に力を与えてくれるものとして、江戸時代に持て難 されるようになったのではないか。そこには、相撲の力士のような「素晴らしいパワー」を獲得したい(あやかりたい)という江戸時代庶民一人一人の意識が あったようにも思われてならない、だからこそ、幕の内弁当には「小結」や「大結」といった用語が使用され、芝居のみならず様々な形態で売られるようになっ たのだろう。
さらには、縁起が良いものとして「歌舞伎」の中に取り込まれていった物と思われる。な ぜかというと、「縁起」は「縁喜」(演技)と同音異義語であり、幕の内という言葉は「将軍が絶賛するくらい素晴らしい」という意味である。そのような「縁 起の良い食べ物」であれば、観客である人たちも是非ご利益にあやかりたいと思うのが当然ではなかろうか。それだけに、歌舞伎の世界観では「縁起をかつぐ」 習慣がある。そういったことからも、「第一段を幕の内」と称しているのも、演技が上手にうまくゆく様にという願いも込められてつけられたのであろう。さら には、第一幕というのは、演技が催されるトップである。最初の数字というのは、非常に「縁起が良い数字」である。そういった縁起の良いペアー同士の「言 葉」が響きあって作られているのは、私の「幕の内」の良い意昧添加説を裏付ける根拠となっている。また、「幕の内でも取りにつかはしませうか」とも作品で 出てくるように、「縁起をかつぐ」観客たちの心行きも「幕の内弁当」に霊的な力をあやかりたいといった所から、歌舞伎の世界でも「幕の内弁当」が密かに ブームを呼んだものと思われてならない。そういう意味がなければ、病気見舞いや歌舞伎用語に取り入れられる必然性が見当たらないからである。
「大結び」すなわち「オムスビ」の意(オニギリ)のことである。このオムスビは、日本 人という民族には切っても切れない関係で、遠足や運動会や旅行と言う行事になると「オムスビ」を必ずといってよいほど作って、非常によく食べる。いった い、なぜ、このような「オムスビ」を作って、日本人と言う民族は、食すのだろうか。何か「オムスビ」という食材には、特別な「意味合い」でも、謎かけされ ているような気がしてならない。
誰が考え出したのか現在でも判ってはいないが、いつでも、どこでも、気軽に食べられる のが「オムスピ」である。オニギリショップでは、大量生産ではあるが、手で握って作られている。なぜか、「ホッ」とする光景である。しかし、最後の仕上げ は、オートメーション化されており、衛生面にも気を配りラップで包み、出荷されてゆく。オムスビの種類としては、豊富にあって、鮭オムスビ・昆布オムス ビ・焼きオムスビ・鱈子オムスビ・梅オムスビなどと言った、素材の具まである。
では、いったい「一般家庭」においてはどのような「おむすび」が作られているのであろうか。
この点を調査する便として、「インターネット」で検索してみることにした。その結果、実物表示で記載されているホームページがあったので、この論文に掲載してみたい。資料①注(1)でも理解できるように、沢山の種類のおむすびが作られていることが分かるし、親しまれていることも読み取れる。親しまれているが故に、現代において、いろいろなバリエーションが豊富に含んでいるものと思われる。
では、いったい、日本全国にはどのようなオムスビの具があるのか。
①「お茶の葉おにぎり」山口県(山口県特産品のお茶を利用して、作られている。)
②「合戦オムスビ」愛知県(徳川家康公が、戦時中に、食事をする際に用いたと云われている。)
③「山菜おにぎり」大分県(山菜と言う特産物を使用して作った、九州名物のおにぎりである。)
④「わかめおにぎり」徳島県(鳴門若布を上手に使った、アイディアたっぷりのおにぎりである。)
といった具合に、ほんの数例を挙げてみたが、たくさんの「オムスビ」が存在する。
しかしながら、全国の県においては、どれぐらいのオムスビがあるのかを「インターネッ ト」を利用して、調査することにした。そうすると、詳細に論じられた、おにぎりの品を調査している「全国米穀協会」のホームページがあったので、本論考に 記載しておきたい。ここでは、県別に品物が載せてあり、非常に分かり易い地図になっているのが、大きな特徴といえる。資料②注(2)
オムスビは、全国のみに留まらず、漫画の世界においても、留まるところを知らない。具 体的に例を挙げれば、「それいけ!アンパンマン」という「シリーズ」の漫画の中に、「ばいきんまんの逆襲・おむすびまん」と言うようなタイトルがある。 (1990年7月5日放送)それほどに、現代においても「オムスビ人気」は非常に高い。
そういった中で、この「アンパンマン」を見ていて思うのであるが、食物を「題材」にして作られていることから、食物そのものを「崇める対象」としての「神様的」な役割が付加されているように感じられる。
なぜならば、古代における『古事記』や『日本書紀』も同様で、食べ物は人間に無くては ならない存在でもあるし、食べ物はすべて神様的な役割として書物に登場する。そのうえ、アンパンマンは正義の味方であるし、バイキンマンは、悪魔役という 役割分担が明確になされており、悪を懲らしめるという「勧善懲悪」を行っている点からも言えば、いわば、神様が故に、良いことを勧めていると考えられる。 したがって、オムスビマンも同様に、神格化されているため、人々を救済することになるのではなかろうか。
それから、アンパンマンでは、英語の「マン」がキャラクター名の語尾についている。人間である「ジャムおじさん」にはつかないのは面白い。いわば、マンをつけることでヒーロー化(神様化)しているためだと考えられる。
そのような中で、オムスビらしくない、言い換えれば「オムスビなのか?」「餅なのか?」分からない食べ物も、都道府県の一部には存在する。その食べ物とは、いったいどのような食べ物なのか。
その食べ物とは、「五平餅」という食べ物である。この食べ物は、岐阜県にある恵那市などにおいて作られており、私の知るところが多いので、ここに紹介しておこうと思う。
「作り方」としては、①ご飯を平たくし、円形状に丸める。②串に刺して、これをじっくり焼く。③最後に、味噌をつけて焼くというのが大まかな、だいたいの工程である。
つまり、この五平餅という食べ物は、いわば「焼きオムスビ」といったものだが、なぜ「餅」と言うのだろうか。それには、なにか特別な深い意味合いが込められているのではないか。試みに、オムスビと餅を独自に「分類区分」してみようと思う。
【1】オムスビ‥①俵型
          ②三角型
【2】餅   ‥①東日本・平盤餅
          ②その他・円形餅
つまり、オムスビは「三角型」があるのに対して、餅には「三角型」が存在しないことである。こうして、両者を比較してみると、とても不思議なことである。いったい何故なのであろうか。
ところで、餅と言えば雑煮にして食べるが、ちなみに、正月の「お年玉」(年の賜物)も この「お餅」だったと言われている。また、「雑煮」のこと(新年を祝う日本料理の一つで、菜葉・だいこん・さといもなどの野菜や、鳥肉・かまぼこなどを入 れたすまし汁。または、みそ汁の中にもちを入れたもののこと。)を「保臓」と呼称する地方がある。語源の面から言えば、保臓と呼ばれる理由は、お餅は体に 非常に良く、体の五臓六腑を末永く、保ってくれる食べ物だということから、端を発した言葉である。そんなことから、考えてみると、正月における「鏡餅」や 「餅飾り」や「雑煮」などと言った、素材の「餅」という食べ物は、何か「特別な意味合いを非常に多く含んだ食べ物」だったように思われてならない。どのよ うな役目が存在するのであろうか。日本人とオニギリとの「ネバッコイ関係」には、どのような「ルーツ」が潜んでいるのかを探ってみたいと思う。
オムスビの「ルーツ」を探ろうとすると、石川県金沢市に行きつく。そこでは、炭化したオムスビが「出土」している。
石川県立埋蔵文化財センターに、弥生時代中期に発見された三角型のオムスビ(底辺の長 さ5センチ・高さが8センチ・厚さは約3センチ)がある。発見された場所は、石川県鹿島郡鹿西町の杉谷茶ノバタケ遺跡から出土している。このオムスビは、 弥生時代の頃に発見されたことから考えると、もうその以前から定着していたように、思われてならない。もう少し、調査してみると、もち米から出来ており (チマキ状炭化米と命名されており)、現在私たちが食すようなイメージのオムスビではないことが分かった。さらには、蒸して調理し、食していたことも分 かってきたのである。ではいったい、どのような米だったのであろうか。
その米とは、「赤米」であった。古代食に関しての実験例としては、福岡県・福岡市の農 業協同組合の例があるが、赤米を使った古代食を実際作ってみることにした。食材には、当時の状況に使われたとされる、赤米をそのまま最初に蒸して、作って みると、木の実のような味がして、とてもおいしく感じられた。しかしながら、餅と言えるような「ネバネバ感」はなくて、感触は「パサパサ感」とも言うべき ものであった。これでは、オムスビを作ることが出来ない。では、いったい、どうしたら、現代のような、オムスビのような「ネバネバ感」を、充分に出すこと ができるのであろうか。
赤米は、蒸したあとに「杵と臼で搗かなければならなかった」のである。そうでもしなけ れば、オムスビが出来なかったし、オムスビ独特の、ネバネバ感は出せなかったといえる。つまり、杵と臼で搗き、擂り潰し、そのうえで「ネバネバ感」を出し ていたことがよく分かった。やはり、フィールドワークにおける『体験的実践学習』は、大きく視野を広げるし、有益なものとなった。『書物』と『実践』を加 味しながら、三十分間やってみると、ようやく現在で言うような「オムスビ」が出来たのである。つまり、このことから言えば、お餅を作る過程がなければ、作 れないと言うことが良くわかる。それゆえ、お餅とオムスビには「兄弟関係」があったと言えそうである。いわば、オムスビの原型は、餅だったと言っても、過 言ではないのではなかろうか。
そのオムスビを、一週間放置してみることにしました。なぜならば、保存食としての効果 があると言われているからである。所々に、カビが生えているものの、このオムスビの成分の「糠」が「黴」から守って、中身を大事に保護していることが、証 明できた。実際食べてみると、まだ美味で、食べることが出来た。そういったことからも、弥生人は「オムスビ」を作る上において、保存食の知識を利用し、早 魃などの危機などから、身を守る手段も知識として知っていたのであろう。
このオムスビには、もう一つの利点がある。それは何かというと、持ち運びに便利である と言うことが一番最初に列挙できる。それであるからこそ「戦」や「狩」に行く時に使われたのであり、遠方に行くときなどにも、多く多様化されたという事が 多くの中国書物の『資治通鑑』『藻鹽草』などにおいても、広く読み解くことが出来る。その名を「餅ち飯い」(餅ち飯いが訛って、「お餅」が出来たとされて いる。)と呼称されていることからも、その語源が証明できる。
それでは、文献から見る「餅飯」の言葉をリストアップすると、以下のようなことが言え る。(1)『十巻本和名抄』4「餅 殕字附 釈名云餅」(2)『大鏡』2 時平「冬はもちゐのいと大なるをば一、ちひさきをば二をやきて」(3)『鶉衣』 前編 上巻8 餅辞「やや御仏事のもちゐ始る此」(4)『大和本草』四 造醸「加之炭火上而焼之」といった具合である。
このように、文献を調査してみると、餅飯は大昔から食されて来たことがよくわかる。ま た、冬という季節に食べられていることが『大鏡』から読み解くことができた。現代で言うような、寒い時期に、温かい餅を食べ、体を温めたように思われる。 そういった習慣が、五平餅に繋がっていくのであろう。なぜならば、餅を焼くという文章用例は、餅飯しか散見できないからである。そのようなことから、五平 餅ができたのであろう。さらには、近世になると、それは、ヤキメシなど、バラエティー豊富な形で、増えてくることもひとつの証拠になるのではないかと考え ている。近世になると「御仏事」とあることから、仏様に供える供物に変化していくことが『鶉衣』から読み取れる。何を意味しているのかというと、やはり 「神聖な食べ物」へと変化を遂げたのであると思われる。それだけに、お餅は「宗教意識の濃い食べ物」であると結論付けても良いのではなかろうか。
次に、文献から見る「屯食」について私見を述べてゆきたいと思う。(1)『伊呂波字類 抄』 畳字止 「屯食」(2)『節用集』土 言語 「屯食」(3)『資治通鑑』百九十 唐高祖 「屯食」(4)『藻鹽草』十九 食物 とんじき「屯食とか く、つゝみ飯と云もの、下臈にたぶくいもの也、源氏、」(5)『倭訓栞』前編十八 登 とんじき「記録に屯食と書り、下臈に給ふ飯の名也といへり、唐玄宗 記に、頓食と見え、通雅に屯は是食也、置食之所日頓といへり、物語にとじきとも書り、源氏爪印に、つゝみいひ也、今の鳥の子と同じといへり、」(6)『貞 丈雑記』6 飲食「一屯食と云は、にぎり飯の事也、【中略】強飯を握りかためて、鳥の玉子の如く丸く少し長くしたるを云」(7)『類聚名物考』飲酒四 ど んじき「今も葉につゝみて、飯など給ふこと、東武にもあり【中略】餅のよくつかざるをいふにや」(8)『松屋筆記』十二屯食 屯はアツムルと訓字也、食は イヒ也、飯を屯たる義にて、今のにぎり飯の事をいふ、公家にては、今もにぎりめしをドンジキといへり」(9)『松屋筆記』六十六 屯食 「今の辨當ノコト 也」(10)『玉函叢説』三 屯食の事 「五色の餅をむねとはもれど、うへに昆布勝栗などのやうの物を盛りて、盛りとめには梨子をしくを上にして置かなれ ば、かの荒屯食食也」(11)『新儀式』四 臨時 奉賀天皇御算事「庭中東西相分立屯物酒食」(12)『新儀式』五 臨時 皇太子加元服事「南東西分立屯 食百具」(13)『西宮記』 一皇太子元服「給屯食」(14)『西宮記』 臨時九 親王元服「屯食所々」(15)『類聚雑要抄』三 五節雑事 「小歌料衝 重十前、屯食、大破子」(16)『九暦』天暦二年 「調屯食二具」(17)『日本紀略』四 村上 「以屯食」(18)『小右記』寛弘二年 「屯食昇立中 門」(19)『兵範記』久安五年 「屯食、盛十具、荒十具」(20)『宇津保物語』蔵開 上一 「とじき十ぐばかりにて」(21)『宇津保物詰』嵯峨の院 二 「とじきなどいとおほう有」(22)『源氏物語』一 桐壷 「つかうまつらせける、どんじき、ろくろのからびつどもなど」(23)『河海抄』一 桐壷  「どむじきろくのからひつ」(24)『源氏物諮』四十九寄生 「大將殿よりとんじき五十具」(25)『河海抄』十八 寄生 「とんじき五十具」(26) 『台記別記』久安三年 「屯食三十具」(27)『安元御賀記』安元二年 「屯食百荷おなじきらうの東の庭に立つ」(28)『玉藻』承久二年 「屯食事」 (29)『東宮御元服部類記』元徳元年 「盛屯食十五具、屯食八十五具」と言った具合に、文献調査が出来る。
このような形で、屯食について、詳細に纏めて見たわけではあるが、最初はどうやら、あ まり良い意味ではなかったような気がする。しかしながら、『新儀式』に見られるような「儀式」には、必ずといって良いほど「屯食」の語彙表現が出てくるこ とが非常に面白い。そういったことから考えると、儀式においては「神聖なもの」として扱われ、普段のときはあまり「神聖でないもの」として、扱われたので あると考えられる。そこには、行事と私的な場というような「日常」と「非日常」という関係が明瞭にあったのではなかろうか。その区別があったからこそ、き ちんと区分され、文章にも表現されているものと思われる。
それから、屯食の「屯」には集めるという意味があるように、米の集合体がこの「ニギリ メシ」(オムスビ)に通じるようになっていく。なぜかというと、先ほども申し上げたように、屯食は祭礼のときに使用されていました。そういったことからも 分かるように「神聖な食べ物」である。つまり、神の霊力が宿ったものとされてきたからであろう。その良い証拠が「五色の餅」として表現されている点であ る。五色とは、仏様の光(オーラ)を示すものであり、そういった力が、この屯食にあり、供えられたのであろう。食べ物は、非常に穀霊として崇められてきた 事も、ひとつの良い証拠になるかと思われてならない。
それでは、餅について考えてゆきたいと思う。大阪府・藤井寺市にある道明寺では、 「糒」と呼ばれるもち米の粉を昔から作っている。糒は、水につけるとお粥のような状態になり、そして、これを握ると、餅になる。この餅は、円形状の物で、 桜餅のような舌ざわりで、とてもまろやかで、美味である。かつて、関西でいう餅といえば、この「糒」を意味していたそうである、
滋賀県・永源寺町の黄和田には、うるち米を粉にした「粢」と云われる餅を「日枝神社」 に奉納するといった「神事」が行われており、そういった伝統から、日本古来の餅だと云う説があるのも頷ける。なぜならば、餅はドロドロの状態から作り、神 に奉納するという神事は、昔からずっと続けられてきたからである。そういったことから考えると、先ほど紹介した炭化したオムスビは、呪術的な要素もあった ようにも思われてならない。なぜならば、今の時代まで、原形をとどめて残っているのは、食用としてのものではなく、神事に捧げる物であったに他ならない。 そうでもしなければ、オムスビは食されて、残らないからである。弥生時代のオムスビについては後で述べることにして、話を元に戻すと、こうして出来上がっ た、餅は「ヒヨドリ」や「むすび」や「はしづな」などの十四種類に整形され、最後には、油であげられて行く。一口に餅と言っても、もち米をついて作られる 餅以外にも、さまざまな、餅の姿があることがよく分かる。次は、鏡餅の文献用例である。(1)『改正月令博物筌』正月 鏡餅「神に供ふる餅を、鏡の如く丸 くなす故名づく、もちいかゞみ共云」(2)『夫木和歌抄』三十二 鏡 「千代までもかげをならべてあひみんといはふかゞみのもちゐざらめや」(3)『山の 井』春 「神の餅やうやまへば威をます鏡」(4)『本朝食鏡』造醸 二 「以鏡餅」(5)『鋸梢譚』新拾遺集十二月 「もちのかゞみ遺すとていひやりけ る」(6)『禮容筆粹』五 「鏡は神明の正體なれば、餅を以てその形をうつし、年の始まづむかひ奉る事」(7)『日本歳時記』一 正月 「もちゐかゞみに むかふ」(8)『理齋随筆』五 「正月の餅を鏡といふは、日月に表したる也、禁中の餅は上は紅く下は白きよし、またひしと云は星と云事也、花べらと云は未 詳」(9)『世諺問答』正月 「餅ゐかゞみにむかふ事は、いかなることぞや」(10)『世俗問答考證』上「餅といふ名は同うして」(11)『日次紀事』一  正月「十一日武家具足鏡餅開」「鏡餅ヲ開ク事ハ、年始雑載篇鏡開條ニ詳ナリ」(12)『塵袋』九 年始賞餅事 「餅ハ福ノ源ナレバ」(13)『擁書漫 筆』三 「正月の餅をそこなはじと」(14)『江家次第』一 正月 「有餅鏡」(15)『玉海』養和二年 「見鏡」(16)『猪隈関白記』建仁二年 「見 餅鏡」(17)『明月記』元仁二年 「見歯固鏡」(18)『忠富王記』明應十年 「鏡ニ向」(19)『元長卿記』永正十八年 「供香並餅等」と言った具合 に、昔の文献に散見できる。
現代の鏡餅の実際使用例としては、資料③注(3)が非常に面白い。
鏡開きに関してのホームページがあったので、見てみると、次のような形式で書かれていた。そこで、少々私見を挟みながら、書いて行きたい。
「辞書にきちんと載せてほしい、日本の伝統儀式。パーティや新築祝いなどの席で威勢良く樽酒の蓋を木槌で叩き割る儀式。「割る」はおめでたい席では使わないから「開く」なのであります。樽酒の蓋を鏡というのは、単に平らで丸い板で鏡に似ているという、ただそれだけの理由。
ちなみに一般の辞書や百科事典で「鏡開き」を引くと‥」
「正月に紙や仏に供えた鏡餅をおろし、雑煮や汁粉に入れて食べる こと(大辞林)」「一月十一日に鏡もちをおろして食べること(新明解国語事典)」「正月に飾った鏡餅をおろして食べる行事(類語国語辞典)」「鏡餅を下 げ、雑煮や汁粉などにして皆で食べること(小百科事典マイペディア)」
注(4)にもあるように「樽酒の蓋を鏡というのは、単に平らで丸い板で鏡に似ていると いう、ただそれだけの理由」として、勝手な解釈が施され「語源」が「滅茶苦茶にされている」のが現状である。もう少し、調査してから書いてほしいと思う し、書物におけるきちんとした「文献調査」というアプローチを、していただきたく思う。正確に、きちんと「実証されていない」のが残念でならない。このよ うないい加減な例が、ホームページ上において、蔓延し、後を絶たない。『禮容筆粹』という書物に「鏡は神明の正體なれば、餅を以てその形をうつし、年の始 まづむかひ奉る事」と、あるように、鏡は神を体現し、丸い形にする理由が「明瞭」に書かれている。つまり、神様の本体(ご神体)を表現した形が「丸」(円 形)という図形なのである。
つまり、「お酒」も「お餅」と同様に「神聖なもの」であり、神が宿る霊験新たかな「液 体」なのである。言葉の面から言っても「お」と言うような「接頭辞」がつく。これは、敬った表現なのである。そういったことから、丸という図形は酒にも取 り入れられ、使われるようになった。
次も、本当にいい加減な解釈の実例である。
質問内容‥わたしは鏡餅といえば紅白のモチだと思っていたのですが、どうも県外のひとと話していると、鏡餅は白いものだというひとが多いんです。紅白の鏡餅ってマイナーなのでしょうか。ついでにしめ飾りも地域によって違うもんなんですかね?
回答(1)kawakawaさんから‥鏡餅は、そもそも銅鏡に似 た餅を神様に供えるという風習から来たものであるといわれています。この説が正しいとすれば、丸餅を使っていれば、別に餅の色はどのようなものでも構わな いのではないかとも考えられます。ところが、別の説に、とぐろを巻いた白ヘビを模したものであるという解釈もあり、その場合であれば、白い丸餅でないとお かしいということになりますネ。少なくとも、大阪では白の丸餅を使っています。注連縄は天照大神が岩戸に二度と隠れないようにと岩戸に張り巡らせたナワを 模したものであり、縁起物を飾ることで不浄を清める目的で注連縄飾りをつけますネ。注連飾りは地方によってかなり異なるようです。丁度、結婚式の引き出物 が地方によって異なるように、縁起物は地方によって多少ことなります。以上kawakawaでした。
補足‥蛇の話は私もこの前テレビで知りました。ツートンカラーの 蛇かも。‥冗談です。日本鏡餅組合というところのHPをみると仁天皇の時代、大国主命が大田田根子(大物主神の娘)に、元日に紅白の餅を荒魂なる大神に祭 れば、幸福が訪れると教えたのがはじまりともいわれ、‥‥‥なんてことが書いてありました。だったらうちのほうが正しいのかなー、なんて。他にも紅白の地 域とかないのかしら。ちなみにうちは石川県金沢市です。
注(5)これもやはり、ホームページからの抜粋ではあるが、不正確な解釈が蔓延ってい る。そこで、私見を挟みたいと思う。前述したように「丸い形」は「神様のご神体を表現」している。ホームページで示したような「銅鏡に似た餅を神様に供え るという風習から来たもの」という説は却下である。銅鏡自体が神様の御神体であるから、証拠不十分になる。銅鏡は、神事の祭礼行事に使用されたことは、古 代史の専門家が提唱されておりますので、ここではあえて触れない。そういったことからもわかるように、鏡というのは、霊力を秘めた存在であった。鏡の語源 は、「カガミ」言い換えれば「日神身」を指し示すことからも、神様そのもの「ご神体を」示す。そのことからも、形が丸い理由がわかる。さらには、『古事 記』下「齋杙(いくひ)」には加賀美(かがみ)を掛け真杙(まくい)には真玉(またま)を掛け」ともあるように、神事に使われたことは文献からもきちんと 論証できる。
次は、餅の色についてですが「別に餅の色はどのようなものでも構わないのではないかとも考えられます。」というような、いい加減な、杜撰な形で、書かれている。
『理齋随筆』「正月の餅を鏡といふは、日月に表したる也、禁中の餅は上は紅く下は白き よし、またひしと云は星と云事也」というような形で、しっかり餅の色を規定している。さらには、その理由についても説明している。ここで私見を挟むなら ば、白と言う効能は「清潔さ」や「純粋さ」を表現すると言った効果がある。そういった象徴が、お月様の「十五夜」にはある。いわば、神様といっても良い。 その派生から出来た言葉に、望月がある。望月とは、お餅に通じる「もち」の語源があるので、非常に面白い言葉である。
そのうえ、「もち」と言う言葉は、古代韓国語に見られる「もぢ」と発音も似ていること から、共通する何かがあるものと、私自身、考えている次第である。(現代の韓国の表記では「トゥック」と云われている。)このことは、次回の論文にて、韓 国の影響も「視野」に入れながら、論じてゆきたい。「ナワを模したもの」の部分があるが、縄を張るのは、ひとつの結界領域のことであり、人間世界と神様の 世界の隔たりを意味する。このことは、私の『日本人は紙を食べていた?』という論考を読んでほしい。(本論考では関係ないので触れない。)「垂仁天皇の時 代、幸福が訪れると教えたのがはじまり」というような根拠は、発見できない。
福岡県・久留米市にある、浄水山朝日寺には「朝日長者縁起絵巻」がある。このお話は、 正月中の庭先で、お米の俵を砂の上に置き、餅(鏡餅)を的にして、弓矢で射ろうとします。そうすると、白鳥となり、山の向こうに飛んでゆき、一夜にして、 没落すると云う伝承が残っている。いったい、なぜなのだろうか。「餅の的」(存疑)に次のように書かれている。「昔、豐後ノ國球珠(クズ)ノ郡(コホリ) ニヒロ(廣)キ野ノアル所ニ、大分(おほきた)ノ郡(こほり)ニス(住)ム人、ソノ野ニキタ(來)リテ、家造(ツク)リ、田耕(ツク)リテ、ス(住)ミケ リ。ア(在)リツ(着)キテ家ト(富)ミ、タノ(樂)シカリケリ。酒ノ(飮)ミアソ(遊)ビケルニ、トリアヘズ弓(ユミ)ヲイ(射)ケルニ、マト(的)ノ ナ(無)カリケルニヤ、餅(もちひ)ヲク、(括)リテ、的(まと)ニシテイ(射)ケルホドニ、ソノ餅(もちひ)、白キ鳥ニナリテ飛(ト)ビサ(去)リニケ リ。ソレヨリ後、次第ニオトロ(衰)ヘテ、マド(惑)ヒウ(亡)セニケリ。アト(後)ハムナ(曠)シキ野ニナリタリケルヲ、天平年中ニ速見(ハヤミ)ノ郡 (こほり)ニス(住)ミケル訓迩(クニ)ト云(いひ)ケル人、サシモヨクニギ(饒)ハヒタリシ所ノア(廢)セニケルヲ、アタラ(惜)シトヤ思ヒケン、又 コゝ(此處)ニワタ(渡)リテ田ヲツク(耕)リタリケルホドニ、ソノ苗(ナヘ)ミナ(皆)カ(枯)レウ(亡)セケレバ、オドロ(驚)キオソ(恐)レテ、又 モツク(耕)ラズス(捨)テニケリト云ヘル事アリ。」と『塵袋』第九注(6)にある。
この話でいう「白鳥」・「餅」・「矯り高ぶった長者」ということが「キーワード」にな りそうである。このキーワードを見てゆくと、古代における人々の「作物に対する態度」や「作物に関する考え」が反映し、作物の「神聖な力」が秘められてい るような気がしてならない。それでは、古代人における「作物観」を、大昔に書かれたとされる『古事記』や『日本書紀』などから、紐解いてゆきたいと思う。 『古事記』では、「是(ここ)に八百萬の神共(とも)に議(はか)りて、速須佐之男(の)命に千位(ちくら)の置戸(おきど)を負(おほ)せ、亦鬚(ひ げ)を切り、手足の爪も拔かしめて、神夜良比夜良比岐(かむやらひやらひき)。又食物(をしもの)を大氣津比賣(おほげつひめの)神に乞(こ)ひき。爾に 大氣都比賣、鼻(はな)口(くち)及(また)尻(しり)より、種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出(いだ)して、種種(くさぐさ)作り具(そ な)へて進(たてまつ)る時に、速須佐之男(の)命、其の態(しわざ)を立ち伺(うかが)ひて、穢汚(けが)して奉進(たてまつ)ると爲(おも)ひて、乃 ち其の大宜津比賣(の)神を殺しき。故(かれ)、殺さえし神の身に生(な)れる物は、頭(かしら)に蠶(かひこ)生(な)り、二つの目に稻種(いなだね) 生(な)り、二つの耳に粟(あは)生(な)り、鼻に小豆(あづき)生(な)り、陰(ほと)に麥(むぎ)生(な)り、尻(しり)に大豆(まめ)生(な)りき 故(かれ)是(ここ)に神産巣日御祖(かみむすひのみおやの)命、(こ)れを取らしめて、種(たね)と成へな)しき。」と書かれている。注(7)『日 本書紀』では、「一書曰、伊奘諾尊、欲見其妹、乃到殯歛之處。是時、伊奘冉尊、猶如生平、出迎共語。已而謂伊奘諾尊曰、吾夫君尊。請勿視吾矣、言訖忽然不 見。于時闇也。伊奘諾尊、乃擧一片之火而之。時伊奘冉尊、脹滿太高。上有八色雷公。伊奘諾尊、驚而走還。是時、雷等皆起追來。時道邊有大桃樹。故伊奘諾 尊、隱其樹下、因採其實、以擲雷者、雷等皆退走矣。此用桃避鬼之縁也。時伊奘諾尊、乃投其杖曰、自此以還、雷不敢來。是謂岐神。此本號曰來名戸之祖神焉。 所謂八雷者、在首曰大雷。在胸曰火雷。在腹曰土雷。在背曰稚雷。在尻曰黒雷。在手曰山雷。在足上曰野雷。在陰上曰裂雷。一書曰、伊奘諾尊、追至伊奘冉尊所 在處、便語之日、悲汝故來。答日、族也、勿看吾矣。伊奘諾尊、不從猶看之。故伊奘冉尊恥恨之曰、汝已見我情。我復見汝情。時伊奘諾尊亦慙焉。困將出返。于 時、不直默歸、而盟之日、族離。又曰、不負於族。乃所唾之神、號曰速玉之男。次掃之神、號泉津事解之男。凡二神矣。及其與妹相鬪於泉平坂也、伊奘諾尊曰、 始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。時泉守道者自云。有言矣。曰、吾與汝已生國矣。奈何更求生乎。吾則當留此國、不可共去。是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾 尊聞而善之。乃散去矣。但親見泉國。此既不祥。故欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門。然此二門潮既太急、故還向於橘之小門、而拂濯也。于時、入水吹生磐 土命。出水吹生大直日神。又入吹生底土命。出吹生大綾津日神。又入吹生赤土命。出吹生大地海原之諸神矣。不負於族、此云宇我邏磨〓茸。一書曰、伊奘諾尊、 勅任三子曰、天照大神者、可以御高天之原也。月夜見尊者、可以配日而知天事也。素戔嗚尊者、可以御滄海之原也。既而天照大神、在於天上曰、聞葦原中國有保 食神。宜爾月夜見尊、就候之。月夜見尊、受勅而降。已到于保食神許。保食神、乃廻首嚮國、則自口出飯。又嚮海、則鰭廣鰭狹亦自口出。又嚮山、則毛麁毛柔亦 自口出。夫品物悉備、貯之百机而饗之。是時、月夜見尊、忿然作色日、穢哉、鄙矣、寧可以口吐之物、敢養我乎、廼拔劔撃殺。然後、復命、具言其事。時天照大 神、怒甚之曰、汝是惡神。不須相見、乃與月夜見尊、一日一夜、隔離而住。是後、天照大神、復習遣天熊人往看之。是時、保食神實已死矣。唯有其神之頂、化爲 牛馬。顱上生粟。眉上生繭。眼中生稗。腹中生稲。陰生麥及大小豆。天熊人悉取持去而奉進之。于時、天照大神喜之日、是物者、則顯見蒼生、可食而活之也。乃 以粟稗麥豆、爲陸田種子。以稲爲水田種子。又因定天邑君。即以其稻種、始殖于天狹田及長田。其秋垂穎、八握莫莫然、甚快也。又口裏含繭、便得抽絲。自此始 有養蠶之道焉。保食神、此云宇氣母知能加微。顯見蒼生、此云宇都志枳阿烏比等久佐。」注(8)といった具合に書かれている。
保食神(うけもちのかみ)は、食べ物をいくらでも出すので、気持ち悪いと腹を立てた天照大神の弟、月夜見尊(ツクヨミ)によって、殺されてしまう。死体から「アワ」や「ヒエ」や「豆」が出てきたと伝承されている。
こういった食物が、死体から生じるという現象においては(「死体化成神話」は)、実は 日本のみに留まらず、インドネシアからメラネシア・ポリネシアを経て、南北アメリカの一部に至るまで、広く分布している。穀物、とりわけ、米を重視してき たと言うことが、よく分かる実例である。そんなことを考えると、ひょっとしたら、世界がつながる何らかの宗教や言葉があったかもしれない。そんなことを考 える理由としては、大野晋氏の「日本語とタミル語の関係」(国文学『解釈と鑑賞』)にもあるように、東南アジアの諸言語と日本語における共通点が多く見出 せるからである。その事に関して、「まゆつば」などと言われる学者は非常に多いが、いろいろな点を詳細に見てゆくと、「まゆつばといい切れない部分」がた くさん出てくる。もう少し言うと、言語は一つにおいて、一線上でつながるものと私自身考えている。「イロハ歌」なども同様なことが言える。この歌は仏教的 なものばかりでなく、ヘブライ語を主として作られていることは否定できない事実がある。このことに関しては、私が長年にわたってあたためてきた『カゴメの 歌のなぞ』(近日に刊行予定)にて論証したい。それだけに、言語と宗教という二つの事象は、関聯し合っているし、密接な相互関係の上に置いて、成り立って いることは、否定できない。このことに関しては、次回の論文などでも詳細に論じようと思う。これからの論の方針としては、言語学(国語学)→文学(世界文 学)→文化人類学(人間学など)→自然科学→宗教学〔故駒沢大学駒沢高校教諭吉田多津雄氏の「学問へのアプローチの仕方」〕を取りまぜながら、書いてゆき たいと思う。なぜそうするのかというと、この頃では、専門的に細分され、視野が狭くなっているからである。話を元に戻すが、「シルクロード」や「海の道」 もあるように、文化の交流という要因は、法隆寺などを見ても判るように、広く分布していてもおかしくないのではあるまいか。
さらには、岡正雄氏は、民俗学の見地から、この神が、北方系の高皇産霊神よりも軽い地 位を占めていること等から着目し、北方系神話と異質の、インド・中国南部・インドネシア方面につらなる南方系の稲作=母権社会文化に由来することを指摘し ている。松村武雄氏も比較神話学の立場からこれに同調しておられる。注(9)
最新の学術研究の成果では「保食神の屍体に食物類ができる話しとなるが、食物でないも のが混在している。これは古代朝鮮語の言語の遊戯とみなす説がある。mar(頂)―mar(馬)ca・co(額)―co(栗)などはその一例。」として、 韓国語の影響を気にしていることが非常に興味深いことである。注(10)
ここで、面白いことは、韓国語と日本語を比較しながら食物が述べられている点である。 そういったことを考えると、言語学専攻をしているといったこともあり、古代韓国語の言葉を思い浮かべる。餅という言葉も、古代韓国語に直すと「モヂ」とい うような表記ができる。先ほども述べたが、現代の言葉は「トゥック」であるし、言葉は全然違う。つまり、餅もこの韓国語の影響があるのではなかろうか。
なぜ、そのようなことを考えるのかというと、非常に韓国語は日本語との共通点(接点) が見受けられるからである。そのようなことから言って、韓国の影響が多く影響しているものと推定している。私の論考に『猫も杓子もの語源は?』 (http://www.komazawa.com/hagi・駒沢短期大学萩原義雄氏監修)という論文があるが、杓子という言葉や杓子の文化も韓国から の影響といったものが、非常に多く見受けられたからである。そうした観点から言うと、韓国の影響があったとして、定義してよいものと思われる。
それでは、食物が「どんなに大事になされたのか?」は「三角形のオムスビ」や「鏡餅の餅飾りの形」に「象徴されている」という例を実際に挙げ、指摘した、偉大な人物がいた。その人物とは、民俗学者の柳田國男博士である。
その著述には「餅のこの円錐形は握飯の三角形と、或は考へ合すべきものでは無かつたら うか。握飯の方言はヤキメシ・ヤクママが、最も多く、焼いて何時でも食べられ、従うて家族の共同飲食から、自在に独立し得られる点も餅と稍似て居る。是を 三角に結ぶのは手の自然の動かし方によるものと、何でも無く解して居る人が有るか知れぬが、さうでない証拠には俵形のものも作られ、単に箸無しに多人数に 分配する為ならば、別に又切飯や押し出しの方法もあるので、仮に無意識に三角な格好が出来るにしても、斯ういふ手の癖を発達せしめた何かの原因はあつたわ けである。三角な握飯の最も正式に用ゐられるのは、信州などにも行はれて居る年取の晩の供物、即ちミタマ様の飯と称して、歳棚の片端又は一段と低い処に、 平年は十二箇とか又は家の人の数だけとか拵へて、皿や折敷に載せて上げて置くものであるが、是とやゝ似たことを盆の魂棚にもする土地がある。ミタマは御霊 といふ漢字の元の訓で、今日中元の際に限つて精聖と呼び、又は唯ホトケサマとも謂つているものと、同じ語であるに相違ないのだけれども、それに此様な形式 を以て食物を供へる理由は、今日では既に不明に帰して居る。或は家の御先祖の後に附いて、此日訪れて来る無縁ボトケの為に、別に是だけの用意をするやうに 考へて居る者もあつて、問題それ自身が神道からも仏道からも、共に説明せられない無縁の状態に在るのである。【中略】其前に自分の想像を言つて見るなら ば、是は人間の心臓の形を、象どつて居たものでは無いかといふのである。食物が人の形体を作るものとすれば、最も重要なる食物が最も大切なる部分を、構成 するであらうといふのが古人の推理で、仍つて其信念を心強くする為に、最初から其形を目途の方に近づけようとして居たのでは無いか。是は仮説であつて勿論 重々の検討を必要とするが、私は今まで色々の場合に、上の尖つた三角形がいつも人生の大事を表徴して居るやうに感じて居る。心が我々の胸の左に在るといふ ことは、何か事有るたびにいち早く動くのがこゝであるから、さう思つたのにも一通りの理由はある。さうして何かの折に其形が稍円錐形であることを知つて、 特に之を養はんとする食物を、成るだけ其恰好に似せようとしたのも、単純なる人の願ひであつたらう。しかも今日の生理学によつて、それは悉く謝まつた認識 から出て居ることが判つても、なほ握飯を三角形とし鏡餅を中高とし、多くの土地では斯うしたものが無いと、正月のやうな気がせぬといふことは、単なる忘れ 残りといふ以上に、亦一つの未だ究められざる力では無かつたらうか。」と興味をそそる事を言っている。注(11)
柳田國男博士の説くに、餅飾りは、ピラミッドのように積み重ねることから、三角形になる。そういったことから考えても、餅飾りやオムスビは合い通じるものがあると思われてならない。
なぜならば、握ると言う行為は、魂が篭るという意味があるからである。つまり、それを頂戴することから派生した言葉に、「御霊ごはん」【東北地方】(みたまごはん)と呼ばれている食材があるからである。資料④注(12)が その実例である。このような形で、仏様に供える光景をよく目にする。そういったことからも、この三角は何か特別な意味合いがあるのではないか。そんなこと を私自身考えているうちに、興味深い資料が見つかった。その文献とは、『竹内文書』である。この文献には、日本における「三角」の秘密について詳細に述べ られている。このことは、次回の論文にて、勝軍という人物も交えながら、書いてゆきたいと思っている。
次は、お寺における鏡餅の実例である。資料⑤・⑥注(13)と 言ったように、お正月に、仏様へ「鏡餅」を供える。これは、御霊ごはん同様に、三角の形をしていることからも同様な、性質があるかと思われる。言い換えれ ば、仏様に供えるときは、三角の形で供えるということなのである。つまり、三角という図形には、神聖な意味合いがあるのではないか。三角形にする「もの」 を考えて見ると、果物も仏様に供えるときは御霊ご飯のような形で、三角型の形にしている。言い換えれば、四角錐になる。そういったことからも、仏様に供え るときは三角にしてから必ず供える点で、神聖な「意味合い」が強いことが分かる。そうでなければ、つまないで、お皿の上に並べて置けば良いからである。な ぜ三角の構図にするのかは、次回の論文で「ヒミツ」を実証的に論証してみたいと思う。
今回は、オムスビが「鏡餅」だったことは、実際にいろいろな「検証」をしながら「実 証」した。今回は残念ながら、オムスビには「不思議な霊力」が潜んでいることは論及できなかったが、次回の論文では「オムスビ」と「高御魂神社」との意外 な関係(多くの関係資料)と、日本国土における民俗学的な「風習」を多く取り入れながら、三角形の秘密に隠された「暗号文」を紐解いて行きたいと考えてい る。さらには、この三角という「幾何学的な図形」の意味する意図は、いったいどのような物を示すのであろうかという点についても論じてみたい。
 
 
注(1) 参照先‥http:www.rakuten.ne.jpgoldakinosatosilvereventonigiri_page.htm
注(2) 参照先‥http:www.onigiri100.jp
注(3) 資料③ディサービスを利用されている人のリハビリを兼ねて13年の暮れに作った「紙における鏡餅」です。
提供者‥ハッシュシステムにいらつしゃる沼口美代子氏(さくらディーサービス)
注(4) 参照先‥http://www.yamakosenbei.co.jp/haku/hagami.htm
注(5) 参照先①http://www.rekuten.co.jp.dream-eye/379451/383182/
参照先②http://www.okweb.ne.jp/qa/question_25244.html
注(6) 日本古典文学大系 所収 岩波書店 『風土記・晩文』昭和33年4月5日
注(7) 日本古典文学大系 所収 岩波書店 『古事記』昭和33年6月5日
注(8) 日本古典文学大系 所収 岩波書店 『日本書紀』 昭和42年3月31日
注(9) 日本古典文学大系 所収 岩波書店 『日本書紀』 昭和42年3月31日 解説の補注から引用(一部改変)
注(10) 新日本古典文学全集 所収 小学館 『日本書紀』 平成6年4月20日 解説の補注から引用
注(11) 『柳田國男全集』 所収 「食物と心臓」 筑摩書房 1998年4月25日
注(12) 東北地方の御霊ご飯「マイクロソフトワード」を使用し、作成。
観音様は、『Super日本語大辞典』〔学研〕(CD-ROM)金田一春彦氏監修版を引用
注(13) 赤松宗旦 氏(『利根川図志』の著者 阿部正路氏訳 崙書房)が度々、調査のために、足を運んだお寺でもあり、親友の深かった、お寺のご住職がいた、ゆかりのお寺 で、江戸時代からずっと続く由緒あるお寺である。それだけに、興味深いことがある。また、書物『邑心』第21号「一法庵三思録(二一)」飯田利行老師著、 にもこの「円蔵寺」というお寺が紹介されている。場所‥千葉県印旛郡印旛村山田 資料⑤・⑥
 
 
〓は禾既 返り点等は省略した